STORY 1|ちょこっと放浪記|本棚とセカイと東京

今日から、“ちょこっと放浪記“と題して、ちょこっとづつ、心の中と頭の中を書き綴っていこうと思う。僕が見ているセカイも、君が見ているセカイも、きっと新たなセカイのヒントになるから。

この文章を書いている今日は、2024年10月6日。天気は晴れと曇りで秋の風。

僕の年齢は37歳と8ヶ月。大分の半島に買った古民家の縁側に、DIYして作ったワークスペースで、iPadにスマートキーボードをつけて、自己流のタイピングをしている。


視線を上げると本が並び、『そして、ぼくは旅に出た。大竹英洋』『読書という荒野 見城徹』『辺境遊記 下田昌克』『東京装置 小林紀晴』の本が、パッと目に入る場所に置いてある。

置いてあるというのが正しくて、並んであるわけではない。意図してそこに並べた訳ではなく、きっとそこにあるべくしてそこにある。勿論置いたのは自分だけれど、意図して置いた訳ではない。

他にも本は置いてある。辺境遊記の隣には、脳科学マーケティング100の心理技術なんて本もある。あるけど、それはそこにあるだけで、意識しないと認識されずに、今手に取ってみたら埃を被っていた。まさに人生のようなものだ。


目の前に広がるモノコトヒト。同じ場所にいて同じセカイを見てても、見えてるセカイは違う。

見たいモノだけを見ているのか?それとも、見るべきモノが見えやすくなっているのか?

事実としては、旅、荒野、辺境、東京、これらの言葉を言葉として積極的に脳が認識したという事であり、目の前に並んでいる82冊の本から得た、パッと見な一瞬の情報量は、コレらだったと言う事。

コレらを、求めているのだろうか?


確かに、田舎暮らしを始めてからというもの、旅と呼べる旅はしていない。
1年の半分を海外を旅する暮らしを、何年もやっていたのに、極端な人生の切り替えだ(笑)

日常的に1週間くらいアウトドアギアを積んだ車で出かけることはやっているけど、それは僕にとって旅ではなくて、当たり前な日常の過ごし方。

正直なところ、飽きてきているのかもしれない。THEスローライフと呼べる暮らしを、4年も過ごし、天気予報が良ければ、山や海や川へ出かける。大分いうのはアウトドア好きには魅力的な地で、海も山も川もバランス良く点在している。勿論、4年前まで拠点にしていた北海道とは比較のしようが無いけれど、大分の街と自然の距離感は心地良さを感じる。


暮らしている環境も、街からほど良い距離感の里山にある古民家で、敷地は1,000坪くらいあるから、畑では有機無農薬野菜を育てたり、大きな木々にハンモックを吊るして読書したり、敷地から汲み上げる地下水を毎日飲んでたり、その地下水で薪風呂を焚いたり、風呂上がりに半裸で外に出て無数に広がる星を眺めたり、縁側から外の森に集う小鳥たちを眺めたり、森側にある大きな窓はアートみたいなもんで、季節の移ろいを見せてくれる。

まぁ、素晴らしい暮らしであり、素晴らしい環境である事は間違いない。


この心地良さに浸かっている事に飽きつつあるのは薄々感じていて、その潜在意識が、旅、荒野、辺境、東京というワードを認識させたのか?

東京という言葉には、全く興味がないはずだ。むしろ都会が嫌いな僕としては避けていた場所。山道を歩くのは何時間でも何日でも疲れる事なく歩けるのに、どう言う訳か、都会のコンクリートの上では30分で疲れるのである。

東京=人やモノが無数に交差し無数のセカイが混在する場所

こう捉えれば、面白そうではある。実際田舎暮らしをして、最も枯渇しているのは、刺激的な人間関係や出会い、モノや作品、お店との出会いであり、東京にはこれらが無数に存在しているのであろう。

人間というのは、自分というのは、ないモノねだりのプロフェッショナルだと常々思う。

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